言葉は通じないのに、居心地がよかった ― JP Hackett(4/5)
ロンドンのテーラーを訪ねた話、全5回の4回目です。
3軒目は、JP Hackett。サヴィル・ロウ14番地の店です。

入った瞬間、緊張がほどけた
ここに入った瞬間、体の力が抜けました。
前の2軒とは、まったく違ったんです。
Anderson & Sheppard も Henry Poole も、言ってみれば工房でした。作っている場所を見せてもらった、という感じです。だから緊張していました。
ここはお店でした。
エメラルドグリーンに塗られた部屋。オレンジ色の壁紙に、バーカウンター。壁には絵が並んでいて、ソファがあって、暖炉がある。服屋というより、誰かの居間のようでした。
単純に、おしゃれだなと思いました。


若い人がいて、空気が軽い
働いている人も、少し違いました。
若いスタッフの方がいて、お店の空気が軽いんです。にぎやかというほどではないけれど、張り詰めていない。
そして、ここが一番不思議だったのですが ――
会話はできないのに、居心地がよかったんです。
相変わらず英語は分かりません。松山さんに訳してもらうか、知っている単語と身振り手振りでやり取りするしかない。それは前の2軒と同じでした。
なのに、ここでは肩の力が抜けていました。

タキシードが並んでいた
店の中には、タキシードが何着も掛かっていました。
前回書いたとおり、タキシードはこの通りで生まれた服です。そこから200年近く経って、いまも同じ通りで作られ、売られている。
襟の形もいくつかあって、並べて見ると違いがよく分かります。日本のお店で1着ずつ見るのとは、また違う見え方でした。


日本に帰ってきてから、あの居心地のよさが何だったのかを考えていました。
そして、これは衣装選びにそのまま関わる話だと思うようになりました。
衣装選びで一番多い失敗は、「似合わない服を選んでしまう」ことではありません。
気後れして、本音を言えないまま決まってしまうことです。
これは仕事柄、何度も見てきました。
お店の人が詳しければ詳しいほど、こうなりやすい。「よくお似合いですよ」と言われると、「そうなんですね」と返してしまう。本当は少し違和感があるのに、それを言葉にできない。専門家が言うんだから、そうなんだろう、と思ってしまう。
そのまま当日を迎えると、写真を見返したときに、なんとなく他人の服を着ているような感じが残ります。
私は英語が話せません。それでも、あの店は居心地がよかった。
つまり、居心地というのは、言葉より前にあるということです。
説明が理解できるかどうか、詳しいかどうか。その前に、その場所にいて呼吸が楽かどうかが決まっている。
だから、衣装をお願いする先を選ぶときは、腕前や品揃えと同じくらい、
「ここでなら、”これは好きじゃないです”と言えそうか」
を見てみてください。
言えそうにないと感じたら、その違和感のほうが正しいです。

ハケットの壁があの色に塗られているのは、たぶん、そういうことなんだと思います。
次回は最終回。サヴィル・ロウ1番地、Gieves & Hawkes です。一日中、言葉の分からないまま歩いてきて、最後の店で日本語が聞こえた話を書きます。