150年前のお客さんの記録が、まだ棚にあった(3/5)
ロンドンのテーラーを訪ねた話、全5回の3回目です。
2軒目に伺ったのは、Henry Poole & Co. でした。

一番古い店
1806年創業。サヴィル・ロウで最も古いテーラーです。
日本でいうと江戸時代、まだ徳川将軍がいた頃から続いていることになります。そう考えると、少し現実感がなくなります。
そしてこの店は、タキシードが生まれた店でもあります。
いま新郎の衣装として当たり前に選ばれているタキシードは、もとをたどればこの店で作られた一着から始まりました。夜の集まりで着るための、少し楽な礼服として作られたものが、世界中に広がっていったのだそうです。
歴史の詳しい話は、松山さんがブログに書かれています。私はここで見たものの話を書きます。
棚一面の、帳簿
店の中に、壁一面の棚がありました。
背表紙に年代の入った、分厚い帳簿がぎっしり並んでいます。何十冊、何百冊という単位です。歴代のお客さんの記録でした。
一冊、開いて見せてもらいました。



大事に保存されているものだったので、さすがに触れませんでした。
手書きの文字で、注文した人の寸法が細かく書き込まれていました。数字だけではありません。肩がどう傾いているか、背中がどう丸いか、片方の腕がどうか。その人の体の特徴が、全部書いてある。
150年以上前の人の記録が、今も棚に立っている。
それを見て、少し背筋が伸びました。

白洲次郎と、吉田茂
これはその場では知らず、日本に帰ってきてから知ったことです。
あの棚のどこかに、白洲次郎と吉田茂の記録もあるのだそうです。
戦後の日本を作った人たちが、ロンドンのあの店で服を仕立てていた。そしてその記録が、私が見たあの棚の中に、今も残っている。
そう思うと、あの帳簿の見え方がまた変わりました。あれは服の記録であると同時に、そこに立っていた人の記録でもあります。
台帳には触れなかったけれど
いっぽうで、手縫いをしていた職人さんは、とても気さくな方でした。

言葉は通じないのに、手を止めて、縫っているところを見せてくれました。近くで、じっくり。
縫い目が、細かいんです。機械では出ない細かさで、しかも一定でした。これを何十年もやってきた人の手なんだな、というのが、説明されなくても分かりました。
台帳には触れなかったけれど、縫い目は見せてもらえた。
守るものと、開くもの。この店の距離感が、なんとなく分かった気がしました。

作業台の壁の、家族の写真

仕事場には、ミシンに向かっている方もいました。
手元の壁に、家族の写真が貼ってあります。ご本人と、奥さんと、子どもたち。その左には白黒のサッカーチームの写真が数枚と、チャリティーレースのメダル。カレンダー。顔を上げれば必ず目に入るところに、自分の生活が並んでいます。
1軒目のアンダーソン&シェパードでも同じでした。作業台の一つひとつに、その人の写真が貼ってある。1軒だけの話ではありませんでした。
棚には、お客さんの記録が並んでいる。壁には、作り手の家族が貼ってある。同じ建物の中に、その両方がありました。
おふたりに、ひとつだけ
結婚式の衣装は、その日一日のためのものだと思われがちです。
でも実際には、そうではありません。写真になって残ります。
式が終わって、アルバムができて、それが家のどこかに置かれる。5年後、10年後にふと開く。もっと先には、子どもがその写真を見ます。「これ、お父さん?」と言いながら。
ヘンリー・プールの棚を見て思ったのは、仕立てるというのは、記録を残すことでもあるということでした。
あの帳簿に残っていたのは、服のサイズではなく、その人そのものでした。同じように、結婚式の写真に残るのは、衣装ではなくおふたりです。
だから、衣装を選ぶときの基準は、ひとつでいいと思っています。
「10年後に見て、気恥ずかしくないか」
今いちばん流行っているものが、10年後にどう見えるか。逆に、少し地味かなと思うくらいのものが、10年後にちょうどよく見えることもあります。
迷ったときは、そこだけ考えてみてください。

次回は JP Hackett。ここから、店の空気ががらりと変わります。