一生に一度しか入れないテーラー(2/5)
ロンドンのテーラーを訪ねた話、全5回の2回目です。

入れない店だった
この日、最初に伺ったのは Anderson & Sheppard というテーラーです。
サヴィル・ロウの名前で知られる店ですが、実はこの店だけ、通りが違います。一本裏の Old Burlington Street にある。チャールズ国王の服を仕立てる店としても知られています。
あとから知ったのですが、この店は簡単に中を見せてもらえる店ではありません。
松山さんは何度もロンドンに通っています。
その度にこの店を見せてもらえないかと試みてきて、これまで一度も叶わなかったそうです。
それが今回、たまたま行けることになりました。
つまり私は、ロンドンもサヴィル・ロウも初めてなのに、いきなり一番入れない店に入れてもらったことになります。おそらく、もう一度この部屋に入ることはありません。
スーツ好きとして、その部屋にいた
あとで松山さんのブログを読んで知ったのですが、この店に入った瞬間のことを「ここか……」と身震いした、この一軒で旅の9割が終わった感覚だった、と書かれています。
何年も入りたかった部屋に、ようやく立てたわけです。
私は一人のスーツ好きとして、あの部屋を見ていました。
もともとアパレルにいた人間です。服が好きで、その本場がここだということも知っていて、それでも実物は見たことがなかった。
松山さんは仕立てる側として、私は着る側として、同じ部屋に立っていました。


吊り下がっているのは、時間だった

壁一面、天井の近くまで型紙が吊り下がっています。
ビスポークは、一人ひとりの体に合わせて紙の型を起こします。その型を、仕立てたあともこうして残してある。つまりこの壁に下がっている枚数が、この店が服を作ってきた人の数です。
一枚が、誰かの体です。生地や道具より、この壁のほうがずっと重く見えました。何十年もここで服を作り続けてきた、その時間がそのまま物として吊り下がっている。
本場の生地に触れる

松山さんが、生地を手に取っては戻し、また別のものを手に取っていました。ときどきジェイミーさんと何かを話しています。会話は松山さんの通訳越しでしたが、手つきのほうは、言葉がなくても分かります。
今回は視察ですので、ここで一着を仕立てたわけではありません。それでも、本場の生地を、本場の人が扱うところを真横で見られる。スーツ好きとしては、これ以上ない時間でした。
柔らかく仕立てる、という考え方
この店には、この店なりの仕立て方があります。
肩や胸まわりに少しゆとりを持たせて、体の動きについてくるように作る。かっちりと固めない。着たときに、服のほうが少し余裕を持っている。そういう作り方です。
サヴィル・ロウのテーラーの多くは、もともと軍服から始まっています。軍服はきちんと形が決まっていないといけないので、生地もしっかりしていて、固く作られる。
この店はそこから離れて、着やすさと優雅さのほうへ行った店だ、ということでした。
仕立てる側から見た詳しい説明は、松山さんがブログに書かれています。そちらをどうぞ。

ここからは、日本に帰ってきてから考えたことです
結婚式の一日は、思っているより長いです。
タキシードを着用してから、挙式、写真撮影、乾杯、歓談、お見送り。朝から晩まで、ほとんど衣装を着たままです。
そして新郎は、その間ずっと腕を上げています。
グラスを掲げる。握手をする。ハグをする。子どもを抱き上げる。ゲストと写真を撮るために肩を並べる。数えてみると、驚くほど腕を上げています。
試着室の鏡の前で、腕を下ろしたまま「かっこいいな」と思って決めてしまうと、当日の夕方につらくなります。肩が張って、笑顔が固くなる。写真にもそれが写ります。
だから、試着では必ず、両腕を真上に上げてみてください。
肩が突っ張るか、服がついてくるか。そこが分かれ目です。


かっこよく見える服と、一日中着ていられる服は、別のものです。その両方を満たすために、あの店は100年以上かけて仕立て方を工夫してきた。あの型紙の壁を見ながら考えていたのは、そういうことでした。
余談:職人さんがいない

写真をよく見ると、人のいない仕事場が写っています。
伺ったのが連休の前で、職人さんたちが休みに入っていたためです。サヴィル・ロウの職人さんは、多くが個人事業主として働いていて、自分で休みを決めるのだそうです。
会社に勤めているわけではない。だから休む。当たり前のようでいて、日本の感覚とはずいぶん違うな、と思いました。
このことの本当の意味は、5回目に分かることになります。

次回は Henry Poole。1806年創業、サヴィル・ロウで一番古い店です。触れなかった一冊の帳簿の話を書きます。
仕立てる側から見た詳しい話は、BELGRAVIA&SONS 松山さんのブログにあります。